久しぶりの、「しごと」のご紹介です。
何もイベント前に…と思われるきらいもあるでしょう。
でもやはり、この日に載せておきたくてアップしました。
「根ざす」ということ
東日本大震災から10年、被災地取材を通して感じてきたこと
東日本大震災から、丸10年を迎えた。
今年も、いろいろなメディアで特集記事や番組が組まれ、復興の進ちょく具合や総括、それに伴う新たな課題といったことが場所や視点を変えながら慌ただしくリポートされている。
3月11日は多くの人が被災地に思いをはせる記念日なのだ。
だがそれも、今回かぎりなのかもしれない。「けじめ」をやたら連呼する偉い人や「節目」というフレーズを繰り返す新聞やテレビを見ていると、もういいでしょ10年も経ったんだからという空気が世間に漂っていることを感じる。
たしかに10年という時間は、それなりには長い。
赤ん坊は小学生になるし、高校生は立派な社会人になるし、団塊の世代は後期高齢者になる。
でも、あの大震災にずっと向き合ってきた人の気持ちを「10年」というものさしでひとくくりにして、そして精算することはできるのだろうか。
そう思うようになったのは、2017年からとある雑誌で、東日本大震災で被災した方々へのインタビューを重ねてきたからだ。月一回、岩手、宮城、福島を中心に回ること4年。お話を聞かせていただいた方は39人を数えた。
あの日をいかに乗り越えて今を生きているかを語ってもらう内容だが、まずは震災でどのような経験をしたのかについてを聞かなくてはならない。
必死に伸ばした手を掴むことなく、目の前で夫が津波にのまれていった人。
いつもの朝、笑顔で送り出した愛娘をバスごと津波に奪われてしまった人。
先祖代々慈しみ暮らしてきた郷土が、原発事故で人の住めない場所になった農家。
感情的にならず聞くようにしていても、淡々と状況を語るその人の内にある悲しみや悔しさ、苦しみ、後悔に心が反応し、胸が苦しくなる場面が何度もあった。
記憶を風化させる要因は、時間に加えて関係性によるところも大きい。
ボランティアをきっかけに今も被災地に関わり続ける人がいる一方で、被災県に住んでいても津波被害の過酷さや原発被害の非情さまでは知らない人がいる。
私がそうだった。岩手県とはいえ津波被害のなかった内陸在住がゆえ、復興予算のついたお手軽な仕事でしか被災の現実に立ちあってこなかった。
某紙でのインタビュー連載は、単に被災県のひとつに住んでいるからという理由で選ばれただけだとしても、私自身の東日本大震災との向き合いかたを大きく変える仕事になった。この4年、私は被災地との関係性をゼロから積み上げてきた気がする。
連載は、今年の2月号で終了した。
インタビューをした39人の方々と、この先再会する確率はとても低いだろう。
だが、その一瞬の感情や考え方に触れたこと、そこで私自身が感じたことをあらためてまとめておくことで、いつかまた誰かの心に届くかもしれない。39人の体験談は、災害において人がいかに無力な存在であるか、だからこそ人間同士の結びつきがなによりも大事なのだという教訓を、何度も繰り返し私に教えてくれるものだったから。
教訓は金言名句ではない。誰かの心に響き、とどまる言葉だけが真実である。それはコロナ禍の今も、この先も起こり続けるであろう災害でも、私たちが立ち上がって一歩を踏み出す足元を照らす灯となるはずだ。
もうひとつ、書きたかったことがある。
福島県の取材では、風景からも原発事故の非情さを思い知った。
秋、帰還困難区域を車で走っていた時に見た田圃風景。黄金色のこうべを垂れた稲穂を収穫することができない現実は、その美しさとともに脳裏に焼き付いている。
国道6号を走る車窓から見たのは、遠くにかすむ福島第一原発の巨大なクレーン群と、浪江、大熊、双葉の街並み。道沿いの建物はすべてバリケードで封鎖され、住宅は屋根瓦が落ちたまま、車は玄関先に停められたまま夏草に飲み込まれていた。
そこにあったのは、復興から遠く忘れ去られた現実。「根ざす」という言葉を強く意識しだしたのが、あの、人が住めなくなった町のありようを見てからというのは皮肉か、あるいは必然なのか。
ただ猛烈に、多くの人にこの風景を見てもらいたいと願った。
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39の物語については、
私のnote(https://note.com/tetote_inoue)
に綴っています。重くはないです。が、長いです。
この4年間に感じてきた思いです。
もしよろしければ、ご覧になってみてください。